砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない 書評

      ***    神主様のありがたいお言葉    ***


    理想とは、愚者が他者を縛る為に持ち出す下らないお題目である。





へー、こんなスレあったんだな。しかも立ったの最近だ。
http://blog.livedoor.jp/ganotasokuhou/archives/34843009.html
爆笑しつつ読みました。
まあ、皮肉というわけではないが、今日はこちらの本の書評をひとつ。




【砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない】

無名のライトノベルレーベルからデビューし、八年後に直木賞を取っている、まさに規格外の怪物。それが桜庭一樹という作家である。普通にこんな経歴見た事ない。
その名前が世に広く知られ始めた契機となる一作が、この作品である。
出版当時の状況としては、シリーズ物のライトノベルをずっと継続して書き続けてきた桜庭が、そのラノベゆえの軽さに耐えられなくなり、もっと重い話を書きたくなって突発的に書き上げたという単作、ということである。
…とは言うものの、そのずっと書いてきたというラノベシリーズ「GOSICK」は、推理物にして安楽椅子探偵物という作品なのだが、じゃあラノベのテンプレに納まるようなクソつまんねえチャラけた小ぢんまりとした作品なのか、というと別に全然そんな事はなく、全編通してかなり骨太な作品に仕上がっている。
まあ読者がどう感じたところで書き手である作者が筆が軽いと感じれば軽いのであり、直木賞取るような作家と他のラノベ作家の作品を比べても仕方がないと言えば確かにそうでもある。
まあやはり本格的な実力派の見据える先は違うという事か。
さて、本作の内容に触れていく。あらすじとしては、無味乾燥な田舎町に暮らす一人の少女の視点を主眼に、歪んで静かに閉塞した彼女の周囲と、嵐のように訪れた一人の転校生を巡る物語を描写したものとなっている。
舞台は明示されていないが鳥取県とかいうところの境港市らしい。(ちなみに砂漠は出てこない)
基本描写は少女漫画的といってもいいくらいの感傷性を備えているものの、田舎ならではの閉塞感を他者への不干渉性で描写するあたりや、主人公を初めとする登場人物達の現実に対するどこか乾いた対応など、“何もない僻地の何もない日常”を無感情に描く事に成功している。
そんな無味簡素な灰色のカンバスに、水と油のごとく相容れない徹底した異分子であり続けるような転校生の登場…という極彩色を、大胆に塗り込んでいく。このあたりのダイナミズムは読んでいて気持ちいい。
と、こう書くと、その先の展開は「転校生の存在が閉塞した環境をかき回し、振り回される主人公も少しずつ変わっていく」か、「主人公が環境に馴染まない転校生の心を少しずつ解きほぐしてゆく」の二通りのどちらかのように推測されるだろうが、結論としてはそのどちらでもない。
変わった転校生が来たところで現実というものは変わりなく厳然に存在し、砂を噛むような退屈な日常の繰り返しの中、主人公は埋没して目立たず、転校生は馴染む事なく異彩を放つ。閉塞した環境はなんら変わらず、転校生の生活は初めから破綻しており、しかし救いを求められる事すらなく、主人公と転校生との奇妙な交流も束の間、やがてやってくる嵐の前に子供が抗すべくもなくすべては過去へと運び去られ、そしてそれぞれの結末を迎える。
タイトルの「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」は、少女趣味過ぎて若干の胸焼けの覚えるものではあるがそれはさておき、少しだけ解説をしておくと。
「砂糖菓子の弾丸」とは砂糖で作られた弾丸という意味であり、まだ大人になれない子供の事である。
「撃ち抜けない」対象は標的であり、現実である。
この物語は現実に対応できない子供が現実の前に敗れ去るまでの物語であり、また同時に、異なる複数の結末を内包する物語でもある。
転校生は砂糖菓子の弾丸として砕け散り。
転校生の父は砂糖菓子の弾丸のまま世に放たれ。
主人公の兄は砂糖菓子の弾丸である事をやめ。
その犠牲によって、主人公はずっと望み続けていた「心無い鉄の弾丸になる事」から猶予を与えられ、子供らしい砂糖菓子の弾丸としての日々を続ける羽目になる。
最終章、己の意思に反する結末を迎えた主人公の述懐は、何よりも深い。
……さて、ここでガラッと話は変わるんだが。
というか冒頭のスレの話に戻るんだが。
神職名簿とそこに並んだ苗字を見りゃ一目瞭然だが、神社界というのは歴史上の権力者達の末裔達が流れ着く場であり、当然のように腐敗の温床となっている。
が、その腐敗こそが我々に安泰な生活を確約する。
腐敗を許容する代償を払ってでも、安泰な人生を求める人間は一定数存在し続ける。
もちろん、腐敗しきった雇用主層が被雇用者を恵まれた条件下で使役する事はないが、「腐敗した連中が聖職者の自覚を取り戻す事」を期待するのをやめさえすれば、いくらでもやりようはある。
“嫌なら辞めろ、我慢できるなら働け、長居したいなら染まれ”
会社でも神社でも言われるのは同じ事だが、まぁ両方に就職しなきゃわからねえ事でもある。
神主になるのに高い学力は必要とされないため、新卒で神主になりたがるような奴は例外なく頭が悪いくせに自分は特別だと考える選民意識をもったバカである。
バカが腐敗した世界にやってきて他者に高い理想を押し付ける。
だが、砂糖菓子の弾丸では撃ち抜けない。



まあ、その構造を理解する私としては無論、両者ともに関わりを持ちたくはなかったんだが、山に篭って霞を食べる仙人みたいな暮らしを送るわけにもいかないし、また神社界にもたっっっっぷりとまだ返してもらってない貸しが残っているので、今日もやむなく神社で働きながら体を壊し、温泉で湯治しラノベを読む、と。

【砂糖菓子の弾丸では勤まらない】











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ヘヴィーオブジェクト 70%の支配者 書評

       ***   神主様のありがたいお言葉   ***


         お客様は神様なんかじゃない。私が神様だ。





前述の時間泥棒の呪縛から逃れてようやくいつもの生活スタイルに。
ひさびさの露天風呂が身体に染みわたる中、新刊を浴びるように読んだ。
【へヴィーオブジェクト 70%の支配者】

学生と貴族の御曹司が軍属らしい口の悪さで軽口の応酬を延々と繰り広げるこのシリーズもはや何作目になろうか。
舞台は近未来、エリートのあやつる巨大兵器のみが支配するクリーンな戦場下において、歩兵二人が馬鹿やりながら泥臭く走り回り、最終的に戦況をひっくり返す…という基本的で王道な話の筋は今作も変わらない。
そして同時に、なんとも鎌池和馬らしい、
描写における概要と省略の連発でわかりやすく情報量を詰め込まれた文体、
そして軽妙な会話のキャッチボールによって維持されるハイスピードな話のテンポ、
また固有名詞すら出さずに記号と属性で描写されるキャラクター達、
さらには読者がついてこれるギリギリを想定しているかのような細く長い話の筋、
最後に無駄な肉を限界まで削ぎ落としたかのごとき物語の骨子、と、
作者の文章の長所を余さず生かした作品である事にも変わりはない。
デビュー以来、「とある魔術の禁書目録」シリーズ一本でやってきた鎌池もここ数年いくつもの新シリーズを展開しているが、続刊が最も楽しみな作品である。
本シリーズの一作目において、救出対象となり戦友ともなったヒロインの固有名詞を一切出す事なく“お姫様”という呼称のみで片付けてあの厚い本一冊分の長い長い話を終える、という壮挙をなしとげた鎌池であるのだが、
今作においては、主人公の馬鹿二人の片割れで下品な御曹司であるところのヘイヴィア、その家族的な存在がようやく登場する。シリーズ始まってから何作目かという話である。超いまさらである。
貴族のヘイヴィアが上等兵なんぞやっている理由についてはシリーズの二作目あたりで軽く触れられておりその折は婚約者も登場していたのだが、そこではおおまかな家庭の事情のみを語られるに留まり、ヘイヴィア自身もまたあくまでも行動力のある一歩兵というスタンスを貫くのみであった為、生家の財力や家庭状況を思わせるものはこれまで何一つ登場してきてはいなかった。
ちなみにもう一人の片割れで、ヘイヴィアよりも主人公ポジションに近い位置にあると言えるクウェンサーについては、これだけの文章を連ねてこれだけの巻数を数えながら、平民で理系の学生で戦地留学をしているという事以外何もわかっていない。ある意味すごい。
そのキャラクターに当てはめられた記号と、そのキャラクターの属する属性のみで人物描写をやり切ってしまう鎌池の手法には、毎度ながら恐れ入る。
その凄さをわかりやすく表現するならば、たとえばラノベには表紙見開きのところにカラーイラストがついているのが普通なのだが、このカラーイラストに大勢、名前のないキャラが登場する。そして彼女らは本編においてもきちんと、ヒロインとして振舞ったり相棒として動いたりしている。なのに名前がない。なかなかできる事ではない。
さて本書の内容についても触れておくと、相も変わらずの寄り道ミッションから始まって(また軽く死にかける)、今回は“島国”の海上防衛圏を巡る内戦が主な舞台となる。“島国”っていうのは固有名詞を避けられているが要するに近未来の日本である。
若者が減り、国防を担う者がいなくなったので、移民を受け入れたり外国籍の民間軍事会社に発注したりして、高い技術力の粋を集めた兵器群を任せ、海上防衛を任せたところ、あっさりと乗っ取られました……というのが内戦の事情である。
ヘイヴィアの叩いた軽口である、「そんな奴らに防衛を任せて、死ぬまで戦うと本気で思うとか、馬鹿なの? 自殺志願なの?」という一言がとても痛々しい。
鎌池は相変わらず容赦がない。
まあ、神主というのはそもそも、オッス、オラ極右!と言わんばかりの非常に右寄りな言動を強制される仕事なので、右っぽいものを見かけるとすぐに(拒否)反応してしまう体質にどうしてもなるのだが、その私の目から見てもやはり、鎌池は割と右寄りな作品を書くよなあと思う。
日本と地理情勢の似通ったイギリスや、あるいは近未来の日本をモチーフにして、世相を皮肉った事を書いて時事ネタを織り込んでくるのはまあわかるんだが、結構熱いというか、“国士”っぽい書き方をしている気がする。
ああ一応説明しておくと国士というのは国の為を思い憂う人の事であってまあ要するにお金大好きな私の対極に位置する人々である。好き好きお金超大好きー。
ちなみに神社界には国士様がたいへん多いのでとても胸糞悪い。私は飯を食う為に神主をやってるだけなので連中の口だけの青臭い書生論も愛想笑い浮かべて聞き流しはするが、正直言って耳障りだ。毒にも薬にも金にもならない話をグダグダと、ホントどうでもいい。まあその話はいい。
かつて北野武が、「テレビでは真ん中よりもちょっと左寄りの意見をした方がうける」と発言した事があるのだが、やはりネットや、ひいては漫画やアニメやラノベあたりでは、ちょっと右寄りの意見をした方がうけるという事なのだろうか。大きいお友達相手には特に。
おっと本書の内容から話がそれた。
さて、クウェンサー達は“正統王国”ことイギリスの軍隊なので、派遣軍として“島国”の内戦に干渉する以上はひたすら出血を強いる、すなわち内戦の長期化を狙うのが今回のミッションとなる。
これだけ書くと随分と胸糞悪いお仕事に聞こえるのだが、実際にやるのは“内戦の終結を狙って反乱軍本拠地を襲撃する政府軍の攻撃から本拠地を守る”という事なので、予告無く突然現れて施設の破壊を狙う敵から施設を守り抜こうとする様は正義の味方のようでもあり、あまり胸糞の悪さを感じさせない。
そのミッションの果てに発覚する新たなる敵の存在、そして戦いを経て明らかになってくる大いなる計画……とまあ、後はいつものへヴィーオブジェクトらしい、二時間枠の超大作ハリウッド映画みたいな流れである。
高い技術力ばかりで抜きん出た軍事力を持たない“島国”が、いかにして世界のパワーバランスを崩すか、という計画が登場するのだが、…このあたりの書き方にもやはり国士様っぽいところを感じるんだよなあ鎌池。
もうこの人ラノベで食えなくなっても新書の架空戦記とか書いて食っていけるんじゃないだろうかと思った。
最後に少し気になる点も上げておくとするならば、このシリーズにおける作者の文章の書き方は、読者として想定している層を“物事に飽きっぽい、ちょっと退屈な描写が続くとすぐ本を投げ出しがちな子供”と設定して書いているようにも受け取れる。
しかしながら、この本を実際に手に取り購入する層の人々は、その設定よりは幾分我慢強いように思われる。
もちろんハイスピードコメディとして立派に成立しているし、文体の持ち味を生かしてもいるが、もう少しじっくりと描写して堅実に話を進めたとしても、読者は作品を投げ出さないと思う。
ともあれ。読んでいて退屈はしない、おすすめな作品である。

【ちなみにこのメイドはもっと口が悪い】

レビュー『龍が如く 維新』

      ***  神主様のありがたいお言葉   ***



    お前ら社畜どもがどれだけ神に祈ろうが、社畜に神はいない。





龍が如く 維新】



ラ ノ ベ じ ゃ ね え じ ゃ ね え か
と言うツッコミが聞こえてきそうだ。
確かにラノベではない。PS3のゲームだ。
ゲームなのだが、今日はこれについて語らねばなるまい。
なぜならば再開早々、このブログの更新を二週間放置させた恐ろしき時間泥棒がこやつだからである。ハハハこやつめ。
いつもより増してすっごいダラダラと書くので、長文注意。


さて。
私は病人のように生活スタイルが固まっていて、湯治に行ったり体休めたりするリズムはまず崩れる事がない。生活のリズムを崩すとそのまま体調を崩すので。
ゲームに熱中できるほど若くもなく、適度な集中と時間つぶし用のツールとして利用している。読書やゲームは身体を酷使しないので。
で。
そのリズムを数年ぶりにぶっ壊してくれたのがこのゲームである。
それほど熱中するかと言われれば別にそうでもない。
それほど面白いかと訊かれても別にとしか答えようがない。
だが気が付くと画面の前に座っていて、仕事と睡眠以外の時間はすべて幕末の京都を疾駆する事に費やされている。
京の町の辻々で襲いかかる不逞浪士やら野伏せりやらをぺすとーるで蜂の巣にしまくったりしている。
農村の田舎屋敷に引っ込んで野菜の生産&宅配サービスの運営に血道をあげている。
さすがに社会人なので仕事に支障をきたすほどやり込みはしないが、生活リズムを崩してまで二週間も同じゲームをやり続けるとか中学生ならいざ知らず、淡白な私にしてはかなり珍しい事だ。
はて。どうしてこうなった…と考えて、一つの結論に思い至った。
アレだ。
要は、このゲームの時代錯誤さと、私の仕事の時代錯誤さに、全くもって違和感がないからだ。
私はあくまでも生活の為に神主になっただけであり、信仰と仕事とを同一視するつもりは初めからないし、伝統への憧れとか懐古趣味とかそういったものとも無縁だ。ただただ食えさえすればいい。
しかし、仕事中は常に袴姿、職場は歴史的建築物、業務内容も時代がかっている…となると、頭の中まで古くなるという事はないにしても、異常な常識に対して抵抗感がなくなってくる。
もちろん神道はただの生活者の私にとって異文化でしかないが、生活するためには職場に合わせる必要があるわけで、許容できなければ飯が食えない。
で、自分にとって異質なものである異文化を抵抗なく受け入れるようになると、自分の価値観とはまったく無関係な選択を普通にするようになる。
和食も食べるようになったし、デザートは何になさいますか?と訊かれたら抹茶アイスを選択するようになった。(関係あるのか?)
でまあ。随分と遠回りをしたが。
要するに、そんな時代錯誤な日常を送る私にとっては、時代錯誤きわまりないこのゲームが、そんなに日常の延長からも遠くない世界の話に見えた、という事なのだろう。たぶん。
まあ、製造元のセガの狙いとしては、



1.不況が長く続く今、NHKの大河ドラマに「龍馬伝」が選ばれた
2.時勢にあわせて「長く続く停滞を打破する、維新期のような人物像が今求められている…!」とかメディアが言い始める
3.よーしじゃあセガ龍が如く』の新作を維新期を舞台に坂本龍馬主役で作っちゃうぞー


ってところなんだろうが。
個人的には、セガにはあまり時流にすり寄って欲しくはないのだが。
テレビ東京みたいな。独自路線をこれからも歩んでいって欲しいのだが。
まあ狙いとしては悪くないといえるだろう。
というか。
今の今までずっと、“ヤクザもの”という近年においてはほとんど独自ジャンルに近いようなものをずっと好成績で売り上げてきたセガにしては、珍しく時流に沿うことのできた作品とも言えるだろう。
海外製FPS全盛期にあえて『戦場のヴァルキュリア』を出してみたりしてどこまでも独自路線で一定の評価をもぎ取っていくあたり、国産ゲームメーカーとしては万丈の気を吐いていると評価してもいいのかも知れない。
これだからセガとアトラスからは目が離せない。
まあセガの話はいい。
超いまさらながらゲーム内容に触れるが、幕末期の京を舞台に、土佐藩坂本龍馬新選組斎藤一の動静を主軸としたストーリーである。
龍が如くの番外編としては三作目となる。シリーズの例に漏れず、バカゲーとしての要素を多分に含みながら、合いも変わらずうんざりするほどのミニゲームを大量に搭載し、アクションアドベンチャーとしては十分過ぎるほどの重厚なシナリオを有している。ていうか長すぎて二週間やってもまだクリアできない。やり込み要素が多い。
神社界はおもに世襲制で、そこに属す人間達は古い伝統に縛られたり既得権益に守られたりするために割と世間知らずだったり時代錯誤だったりするから、たぶんこのゲームは神社界では受けると思う。
袴姿の人たちが遠慮なく殴り合う姿は、自覚なく抑圧される神社人達のフラストレーションをひゃっほうと発散してくれる事だろう。
まあ神社界の人はプライド高いからそもそもゲームとかやってても人に喋ったりしないけれど。




【何この長いレビュー】

傷物語 書評

        ***  神主様のありがたいお言葉  ***



   己に仕える者の財布すら十分に満たせない神など、必要ではない。



傷物語



この物語は、友達のいない高校生のひとりよがりな正義ごっこが、ある一人の吸血姫を救済し、祝福し、そして没落せしめるまでを描写した物語である。
本書を開いたのは例によって例の如く、温泉街の露天風呂の中だったわけだが、本書について語るにはまず、過ぎ去って久しいある時代について語らねばならない。
かつて、たかだかノベルゲーが、そのシナリオの秀逸さと、またシナリオに心打たれた信者の賛辞と、そして洗脳された信者どもを嘲笑うアンチの皮肉から、『聖書』だの『文学』だの『人生』だのと称された時代があった。
その内、『文学』を著した作者が過去に非商業作品として制作し、一大ムーブメントを引き起こして商業ブランド化への転機を迎えるに至った作品というのが、とある吸血鬼譚であった。
そういう時代をほんの少しだけ下ったあたりで、その非商業作品にも登場する『真祖』だの『吸血姫』だのという単語を躊躇いなく作中に使用し、ジャンル被りどころかストーリーラインの同一性すらまるで恐れずに、西尾維新がぶっ込んできた吸血鬼譚。
それが、本書である。
流行りものを押さえるという事はパクリ呼ばわりされるという事と表裏一体でもあるのだが、西尾維新のおっかない所は、堂々とパクリ物としての体裁を取り、メタなネタを織り交ぜて笑いを取りに行きながらも、きわめて独特なテンポを有するその筆致によって、結局は完全に独自の物語を構成してしまうところにあると言えよう。
この話を端的に表現するなら青春小説と言える。
というか、物凄くよく出来ている青春小説といってもいいぐらいである。
笑いあり涙ありバトルあり愁嘆場あり燃えポイントあり、並の書き手じゃ新書一冊に収めきれない分量の物語を、きっちり本一冊にまとめている。
本作は西尾維新の<物語>シリーズ第二作にして三冊目の作品であり、当然ながら、シリーズの他の作品との深い関連性を有する長編物語のごく一部にして途中部分ではあるのだが、「どの作品から読んでも構わない」と作者が豪語する通りに、この作品から読み始めても全く問題ない。
というか、長いシリーズ物だからとただいたずらに展開を先送りにしたりせず、巻頭で始まりを迎えた物語は巻末で綺麗に完結を迎え、きっちりと本一冊分の旅をさせる。
「良著は本一冊分の旅をさせてくれる」というのが私の持論だが、本書はその論に則って何一つ恥じるところのない、しかし内容はとても恥ずかしい物語である。(わりと品が無い)
また、この作品は語り部が一個人に限定されているため必然的にその彼が主人公であり、そして“吸血姫を巡る物語”であるため必然的に主軸となる彼女がヒロインであり、そしてアドバイザー的キャラも存在し、また敵キャラも各種取り揃え、総登場人物数は少ないながらも物語を運ぶ上で不足の無いだけの布陣は備えている。
…いるのだが、しかしそれに加えてさらに別のキャラクターが登場する。
主人公としての働きをし、ヒロインとしての働きもする、何とも不思議な立ち位置のキャラだ。
とは言え、彼女は語り部の位置を奪うでもなく、主人公を押しのけて活躍するでもなく、ヒロインの対抗馬として過剰に自己主張するでもない。
しかし能力と指向性が異質であるが故に、目立つのを嫌いながらもどうしても目立ち、あくまでもメインキャラのサポート役に徹しているのになぜか主人公としてもヒロインとしても働いている。
そんな不思議なキャラである。
一般的に、「超人キャラを出すと話がつまらなくなる」と言われている。
しかし、こういうキャラを出しても蛇足にならず、また目障りだったり鼻についたりという不快さをまったく覚えさせもしない手腕は、魅力的なキャラ造形に定評のある西尾維新の真骨頂と言えるだろう。



西尾が手がけていた前シリーズにあたる「戯言シリーズ」においては、特に天才に対する過剰評価が目立ち、また天才の定義も過剰に拡大する傾向があったのだが、「そこから一人だけキャラクターを持ってきたのか?」とも思える程の万能さであり、有能さであり、そして異常さでもある。羽川翼は。




【メンタルの怪物はすべてを許容する】

ネガティブハッピーチェーンソーエッジ 書評

        *** 神主様のありがたいお言葉 ***



  この世の中に神なんてどこにもいないけれど、金だったら大量に要る。





【ネガティブハッピーチェーンソーエッジ】






記憶では、だいたい10年くらい前だろうか。
「大型新人が問題作をひっさげて堂々登場!」みたいなアオリとともにこの作品名を聞いたような気がする。
何かニュース番組だったような……カウントダウンTVだったような……。まあ記憶の話はどうでもいい。
古本屋で聞き覚えのあるタイトルを見かけた為に買ってみたのだが、この本は角川文庫ではあるものの、表紙もイラストではあるものの、
なんだかあまりラノベらしからぬというか、そんな装丁だった。
だがしかし、中身はしっかりとラノベである。
ありがちな青春小説としての風味付けと、まるで新聞の中ごろに連載されているかのような一般向け大衆小説のようなテイスト。
その二つを加味しているものの、本作品はまごうことなきラノベである。
ボンクラ高校生がボンクラ寮生活を謳歌していたある日、夜の公園で争う二人と遭遇する。チェーンソーを振り回す大柄な怪人に立ち向かうのは、銀の投げナイフを構える女子高生だった……とまあ、大体そんなようなお話である。
まあ、ストーリーもオチもそのへんのノベルゲーの一シナリオと大差ない。話としてはごくありふれたものだ。
主人公やヒロインはステレオタイプの高校生として描かれているが、どうにも型が若干古く感じられる。
二人の会話シーンからは昭和の香りが漂ってくる。
ただ、異常な状況に放り込まれた主人公はそれでもやっぱりボンクラのままであり、いまいち現実から脱却しきれない。
チェーンソー男に襲われる対象はあくまでも女子高生ひとりのみであり、ただの目撃者でしかない主人公は、毎夜繰り広げられる闘争にチャリで駆けつけ、手に汗握って見守るだけという、なかなかシュールな役割をほぼ全編を通じて与えられ続ける。
このあたり、シュールでありながらもそこはかとないリアルさを感じる。シュールでリアル。これがいわゆるシュールレアリズムという奴だろうか。(ちがう)
そんな調子で、全く主人公らしからぬ、とてもささやかなお手伝いだけを、あくまでも控えめに、本当に少しずつ行って、女子高生をサポートしようという意志をかろうじて見せる主人公。
そうではあったのだが、だがしかしその一方で女子高生もまた、ある日突然ひとりきりでチェーンソー男と戦わされるようになった身の上でしかない為、その男らしくないサポートにさえ心強さを覚え始める。うん。似たもの同士だこいつら。
そして両者の戦いは最終決戦を迎え、二人もまた最終局面を迎えて……といった感じに、物語は怒濤の勢いで終盤へとなだれ込んでゆく。
まあそうは言ったものの、物語の結末は、予想は裏切らないし展開は月並みだしオチもやっぱりねとうなずけるものでしかない。
だがしかし。無力な者が困難に直面し、無力なままで立ち向かい、無力なまま寄り添い続け、そして結局は無力なまま、最初と何ひとつ変わるところのないまま結末を迎える。そういう話があってもいいのではないかと思った。
青春は必ずしも強さを必要とするものではないし、また分かりやすい成長譚ばかりがもてはやされるべきものでもないだろう。
ラストに至るまでの怒濤の展開はまさに青春全開、恋愛まっしぐらであり、読んでいる途中で何度顔を赤くし、そして何度本を岩風呂の底に叩きつけようと思ったか分からない。
まあそれくらいには良著である。





【後書きで作者引きこもりみたいな事書いてたけどまだ生きてんのかな】

六花の勇者 書評

          *** 神主様のありがたいお言葉 ***


ククク……よくぞ来た、勇者よ。
神社に勤めるのに信仰心が必要だと思っているようだが…、別になくても勤まる。







六花の勇者



王道ファンタジー小説の良さは何かと言われれば、それは、現実から遊離した自由な世界観のもたらす解放感と、キャラクター達の備える非現実的なまでの清潔感・清涼感に尽きると思われる。
この物語の導入部分はまさしく王道ファンタジーであり、現実離れした解放感と清涼感を味わわせてくれる。
定期的に魔王が復活する世界で、神に選ばれ六花の紋章を背負う個性豊かな勇者達が集い、魔王領目がけて進撃してゆく。
しかしながら、六人のはずの勇者達がなぜか七人集まった・・・という一事によって、話はまるで正反対の方向へと転がってゆく。
寸分違わぬ紋章を宿す仲間達のうち一体誰が七人目なのか。
そいつは魔王の遣わしたスパイなのか。
人類の裏切り者なのか。
六花の勇者を全滅させようと狙っているのか。
互いに背中を預けて戦えるような状況ではなくなり、勇者達の信頼感や絆は育まれる前に消え失せ、しかしながら敵は迫り、魔王復活までの時間制限もある中進撃を余儀なくさせられ、魔物に対峙してもパーティープレイではなく互いを監視しつつの個人戦闘を常に強いられ、実力ある勇者達も徐々に疲弊してゆき、面倒だから皆殺しにして自分が魔王を倒そうと公言する独善主義者、他者を深く疑いつつも身動きの取れず表向きパーティーを維持する者、それでも仲間達を信じようとする者・・・等々、個々人の思惑により勇者達の結束はさらにズタズタになり、個々人の協調性のない行動により状況は混迷の一途を辿り、新たに生まれた謎がさらなる疑心を呼び・・・と、
「勇者が一人多い」という一要素により、一気にこの話は解放感と清涼感を失って人間同士の生々しい駆け引きや疑い合い、醜い争いや同士討ちに話の主役を奪い去られ、そして物語はファンタジーからミステリーへと見事な変貌を遂げる。
ミステリーの王道たるクローズドサークル、そして密室もきちんと登場し、魔王を倒すべき重責を担う勇者達は、閉鎖環境下で際限なくお互いを疑い合い、殺し合う。
全編通して漂う「こんな事してる場合じゃないのに」感は半端なく、さっぱりした語り口も相まって、何とも表現しようのない混乱の物語に仕上がっている。ミステリーにファンタジーを持ち込んで叩かれる作品は枚挙に暇がなく、また本書のようにファンタジーにミステリーを持ち込む作品も既に前例はあるが、各種設定の妙、キャラクターの面白さ、展開の混迷具合、ストーリーの疾走感など、ここまでの完成度を誇る作品にお目にかかった事はなかった。


初めからわかっている事ではあるのだが、謎が解かれ犯人が姿を現しても結局どうしようもない事に変わりは無く、そして、物語の最後にほとんど暴力的と呼んでもいい展開で追加されるさらなる謎。


この作品の前評判はいろいろ聞いてはいたのだが、読んでみてなるほどと実感する思いであった。ここまであれこれ書評を書いておいて何だが、確かにこれは読まねば面白さがわからないし、伝わらない。当初は、面白いという評判なら古本で買って読んでみようかくらいに考えていたのだが、これは古本で買っていたら後悔する作品だった。行きつけの古本屋に並んでいなかったのも頷ける。また、伏線消化など、一巻でかなり「やりきった」感のある物語でありながら、次巻以降も展開が気になるストーリー構成には舌を巻く。


地の文の読みやすさがミステリー向けでもあり、作者のセンスがうかがえる。新人だろうか、と思って後書きを読んだところ、作者は「戦う司書と恋する爆弾」でデビューした人だった。あれも古本屋で買うべきでなかった作品である。続刊と作者の今後に大きく期待したい。



【ダークフレイムマスターとは関係ありません】

ブックマーク数500超記念

はや三年か。東日本大震災の翌日以来書いてなかったんだなこのブログ。


さてさて。かれこれ十年程はてな界隈で文章を書いてきた私ですが、このたび増田に投稿した記事がなんと、まさかのブクマ500超を記録しました。
ちなみに書いた記事ってのはこれね。


http://anond.hatelabo.jp/20140217175047


これまでにもまあ一応、他所のはてなブログホッテントリに取り上げられた記事を書いた経験はあったりもしたんですけどね。
いやーまさかここまで伸びるとは想定外でしたね。というか、ツリーの最頂点ですらない、人の日記に対してぶら下げた記事に、ここまでブクマ付くなんて事がありうるとは思ってもいなかったし。
本当にたまたま、記事の出だしがインパクトのあるキャッチーな書き出しとなった為に、興味本位の人の目を惹きつける事になったという要因も大きいのですが。
いやぁそれにしてもつくづく。
もうホント皆、聖職者の腐敗とか叩くの大好きね。
500なんてブクマ見た事も無かったよ。
おかげで自信が持てました。
このブログ跡地を使ってやろうかやるまいか二年くらいずっと迷っていた企画があって、水面下で準備だけは進めていたんですが、これは…やれる。今回の事で確信しましたね私は。


自筆記事のブックマーク数500を記念して。
50万アクセスのブログ跡地であるここにおいて。
聖職者様の新たなる腐敗、スタートです。やったね!




***  新ブログ “神主が 温泉で ラノベ読む”  ***




まあ旧ブログをやってた数年前は私の職業は聖職者でございますーとか一度も明かしたことはなかったんだが。
実際、私は聖職者をやって飯を食っている。
また他にもいくつか副業を手がけている。
で。もうこれは本業のせいでもありまた同時に副業のせいとも言えるのだが、まあ色々と事情があって定期的に湯治にいかないと体が保たない。
最低でも四時間は温泉につからないといけない為(平均は六時間くらい)、これはどうしてたって退屈する。
で。
仕方なく。やむにやまれず。避けられない事情から。
昼日中の露天風呂で。悠々と酒を飲みながら。読書をしているというわけだ。
この行為は私にとってはあくまでも必要に迫られてしている事に過ぎないのだが、なぜか温泉の従業員や他の客からはディレッタントのように思われているらしい。
そろそろ自分というものの存在がわからなくなってきた。
どうしてこうなった。
というわけで。
神主さんが温泉の中でヒマ潰しに読んだラノベの感想を書いていく。