マグダラで眠れ 書評

     ***   神主様のありがたいお言葉   ***



  職業に貴賎はないが、聖職者は聖職者であり、俗人は俗人である。





連日の猛暑ではあるが、裸足に仕事で履く草履をつっかけて、ぺったらぺったら温泉街をそぞろ歩くのは非常に気持ちのよいものだ。
アスファルトに蓄積した熱で草履の底が溶けてパリパリ言うのを聞かされると、ビーチサンダルで浜辺の道路を歩いているようでもあり、さながら南国リゾート気分を満喫できる。
日没までに終わる仕事の良さというものがここにある。
いやぁ神主になって良かった。
さて、今日はその聖職者叩きに定評のある、こちらの作品である。


【マグダラで眠れ】



支倉凍砂。「狼と香辛料」の人と言った方がわかりやすいだろう。
前シリーズにて全編通して聖職者叩きに余念の無かった支倉凍砂であるが、そのスタイルはまるで「中世の聖職者を叩いておけばとりあえずどこからも文句は出ないし問題ないんだ」と言わんばかりであり、まさに「読者を煽っていくスタイル」である。
次シリーズである本作もまたその例に漏れるものではない。
ただ。ここで一つ断っておきたいのだが、私は聖職者を擁護する気もなければ作者を批判する気もない。むしろその逆である。
前シリーズ「狼と香辛料」においては、主人公の生業である商売(中世における商業)を主眼としていた為、その障害として横たわる宗教勢力、すなわち既得権益の上にどっかりと胡坐をかいて貧民どもの上にマウントポジションで君臨する「教会」の腐敗ぶりについても、かなりの筆が割かれていたように思う。
ただここで注目してもらいたいのは、あくまでも商人が商売敵として認識する上での「宗教の形」というものであって、その認識というのは、単純に生活の為に聖職者をしているだけの私の視点に沿うものでもある。
宗教をビジネスの一形態として捉え、より先鋭化され極安定化を目指した結果としての究極形・一種の到達点として、“商売から出発して商売を超える別のなにかに変化してしまった概念”と宗教を定義する視点は、ラノベ界ならではの自由さと背徳性を十分に生かしきった結果として、世に出る事を許されたものだとも表現できるだろう。
天皇陛下をヒロインにしちまう杉井光といい、宗教を臆面なく商売敵と定義してみせる支倉凍砂といい、こういうとんがった作家は大好きである。
ちなみに両者とも、先頃の“2ch情報流出騒動”においては、他作家や他作品に対する匿名での中傷行為を行っていた事が露見しえらい事になっていたが、彼らの作品のトンガリっぷりを考えれば十分に肯ける行為でもある。
作家が作品のみで勝負しないのはクズだし、匿名で中傷行為を行うのもゲスいとは思うが、両者の作品づくりに対するきわどい姿勢を考えると、他のヌルいほんわか日常系ばかり書いて日々をひさぐようなラノベ作家に対しては文句の一つも言わずには居られないというのが正直なところなのだろう。
とはいえ、結局は面白い売れる作品を書いた作家が正義だ。どんどんやれば宜しい。



さて、のっけから話が逸れた。本題に戻る。
本書「マグダラで眠れ」は、前シリーズ「狼と香辛料」に続く新シリーズとして、再び中世を舞台に、無軌道な錬金術師達の名状しがたい処世術と、それに振り回される一人の修道女を描いたものとなっている。
主人公は錬金術師であるが、中世西欧の魔術師的存在たる錬金術師の固定イメージからは大きく外れた、流浪者にして無法者にして求道者のような存在として描かれている。
現代のように高度科学の光があまねく人民の暮らしを照らす事がなかった中世。最新鋭科学や最新鋭技術に類するものは、わずかに錬金術師の掌中に生み出されるばかりであり、その恩恵に預かる事ができたのは貴族や宗教勢力と言った富裕層のみであった。
かの“マイセン”陶器の発祥も元はと言えば、貴族のパトロンがついた錬金術師が一向に上げられない研究成果の前に深酒を重ねながら、目に見える成果としてパトロンの為に生み出したものとされている。
主人公もそんな、魔術師たり得ない錬金術師の一人として描かれており、現代人の我々の眼からするとただの製鉄業者にしか見えない。
しかし中世の時代においては、より精錬された鉄の鍛造技術を生み出そうとする彼らは単なる業者ではなく研究者であって、さらに言えば錬金術師であり魔術師でもあり得た、と言う事ができる。
封建社会のどこにも属せず、周囲の人間と同じ事をしない。世のはぐれ者として富裕層の庇護下をあちこち浮浪するだけの錬金術師と、その成果監視の為に派遣された修道女。
物語はそんなところから始まる。



あらすじはこれくらいにしておいて本書の書評に移ると、まず第一の感想は「支倉凍砂ってこんなに情景描写上手かったっけ」であった。冒頭から話運びに読者を惹き付けつつも、かつ物語の舞台がすっと頭に入ってくる。
内心描写に重点を置く従前のスタイルは変わっていないものの、さりげない表現が背景描写を補足し、読書のテンポの邪魔にならない。
特に冒頭部分は相当練り込んだのか、ただ文章を追いかけているだけながら、まるでアニメを見ているようでもあった。
内容であるが、基本、登場人物の精神描写や人物間の心理的駆け引きを重点的に描くスタイルは変わっていない。
しかし前シリーズで感じたような「くどさ」は大幅に減じており、読者の心情になるべく沿おうとする意図を感じられる。
老獪、というよりは臈長けたような、現実の前に磨耗しスレてしまった精神の持ち主が主人公に据えられている点は前シリーズと変わらず、ゆえに内面描写や心理的駆け引きが描かれるシーンは非常に多い。
しかし、それなりの社交性や政治力を有した経験値の高い人間を主人公に据えたとしても、ラノベの主読者層からは大きくかけ離れた主人公像となり、読者の感じる共感性がなくなってしまう。
前シリーズを反省しての結果か、今回の主人公はより共感しやすい存在として、現代人たる我々との共通項を特に強調して描かれているように感じる。
歴史小説ではなく時代小説の書き方に近いものを感じる。
主人公はひねくれ者ながら心理描写はひねくれ過ぎずにまっすぐな一本道で、よく整備されておりわかりやすい。
一方ヒロインたる修道女の方はどうかと言うと、これは前シリーズで大体敵キャラとして設定される事の多かった宗教勢力側の人間であり、聖職者の類型像を抜き出したかのような、四角四面の描き方をしている。
まあ聖職者というのはいつの時代でも紋切り型の人物像と対応を求められるという事情ももちろんあるし、その可笑しみも含め、頑固で強情でひたむきな聖職者像として描かれているわけだが、それにしたってこんな聖職者がいるかよと思うくらいのテンプレである。まあ三次元が二次元に文句言っても仕方ない。
そのお堅い聖職者像という牙城を、主人公がイジッてイジッて少しずつ崩していく。前シリーズでは敵として、そして今シリーズではヒロインとして。
要はやってる事は前シリーズと何も変わらないというか、もうこのあたりは支倉凍砂の真骨頂であるのだろう。割と楽そうというか、むしろ楽しそうに書いている。
ティーアドベンチャー風のドロドロとしたストーリー展開は相変わらずだが、救いがないという事はなく、またごちゃごちゃした話の癖に随分スッキリとした簡素な結末で、読み終えた後は爽快感すらある。
支倉凍砂を知らない人にも自信を持って勧められる一冊である。
「この作者性格は悪いけど物語は面白いよ!」と。






【もうそっち系ヒロインしか書かせてもらえないのか支倉】