虐殺器官 書評

   ***     神主様のありがたいお言葉     ***



神の存在から王権神授説が生まれたのではなく、王権神授説を唱えたいから神という存在が創られたのである。




虐殺器官


最近ラノベの棚でよく目にするこの表紙。
やたら(担当編集の)気合が入っている表紙というのは一目ですぐわかる。
なんか雰囲気的に『All you need is kill』っぽい話かねぇ、と思って裏表紙のあらすじを確認すると、どちらかというとCOD:BOみたいなお話。
「メイスン!レズネフ!ファッキンナンバー!」みたいな叫び声を幻聴しつつ、脳内に銃撃戦を繰り広げながらぼんやり著者略歴を眺めると…なんとまあ、すでに故人。流石に驚いた。
35歳逝去という夭折作家。
32歳デビューの遅咲きの花、僅か3年で散る。
こういう悲劇的な肩書あればこそ、気合い入れて売り込みかけてんだろうなあ…と出版社の意図も推し量れようものだが、しかし、夭折作家とかデビュー後数年で死亡の悲劇の作家とかは、普通に私の大好物である。
いい。しかも事故死とかじゃなく、急病でもなく、長患いの果ての死である。すごく、すごくイイ。
こういう、自身に迫りくる死を自覚しつつ、急ぐように焦るように残り少ない人生では書ききれない文章を紙幅にぶちまけてくる作家の、編集でも除去しきれない醜い生臭さや、生への執着や、悔いのない作品作りに掛ける終わりの見えない執念とか、絶望的な閉塞感とかを、作品の行間に見出すたびにゾクゾクしてたまらない。
ちなみに私は言峰綺礼に共感を覚えるタイプの聖職者です。愉悦。
「逝去」の文字を見た瞬間に即購入決定、速攻でレジへ持って行く。
温泉で入湯料を払い、服を脱ぎ、露天風呂に突入するのももどかしく。
燦々と降り注ぐ六月の陽光の下、温泉に濡れた体をデッキチェアに深々と沈め、吹きすぎる爽やかな風に湯気を立ち昇らせつつ…と、作者のおかれている境地とは正反対の“生”を実感できる最高のシチュエーションに自らの身を置き、しっかりとそこに立脚してから、ワクワクしながら頁を開く。
このあたりの快感をうまく説明するのは難しいが、簡単に例えるならばサハラ砂漠でアイスを食べるとか、南極で寄せ鍋をするとかの感覚に近い。
むせ返るような生の実感の中において、重い病に囚われ死を迎えんとする作家の遺稿を読んでこそ、両者の溝――生死の境目というものがはっきりくっきりと浮き上がり、最も明確に捉える事ができるというものだ。
それらしい理由づけはしたが、普通に趣味悪いと言われても否定しない。愉悦。
さあ、眼前に迫るお前の死がどんなものか俺に読み取らせろ……などと考えつつページを繰ってゆくのだが、…なかなか進まない。
退屈なのではなく、一語一語じっくり読ませていくタイプの文章だ。
読書慣れしていない人間だとすぐに放り出しそうだが、我々の業界(活字中毒)ではご褒美です。
百ページ読み進めるのに一時間半くらいかかったのでビックリした。普段の五割増しかよ。
抽象的だったり難解だったりする文回しを休みなく行う割に、持ち出す例えがやたら卑近で理解しやすい。観念的な話もするすると頭に入ってくる。
こりゃ相当頭良くないと書けないぞ、と思う反面、まるで論文集でも読んでるみたいだな、とも思う。
作者経歴を見る限りは文人タイプというよりは芸術家風に見えたけど、どちらかというと学究肌なのかも知れない。
文章は、文章というよりは映像に近い。描写から想起させる情景が映像作品、とくに映画のそれに近い。著者経歴によると…やっぱり映像関係の仕事してたのかな、これ。
と、ここで類似点の多さに、一人の作家が頭に浮かぶ。
浅井ラボである。『されど罪人は龍と踊る』とか書いてる人だ。
死を前にして焦ってるのか何なのか、文章に対して情報を物凄く詰め込んで山盛りにしてそのまま話を運ぼうとするような“荷重積載車両のフラフラ運転の怖さ”みたいな部分を取り除いたとしたら、とても浅井ラボに似た作品を書く作家なんだろうと思う。
強いて言うならば、浅井ラボに「あなたの余命は後一か月です」と医師が宣告したとしたら、泣きじゃくりながらこんな作品を書くと思う。
浅井ラボは既婚者だからちょっと反応違うかも知れないけど)
まあ浅井の話はどうでもいいのでさておき本書の内容に戻ると、ざっくりと言えばこの話は殺人者の話だ。
ただの野良の異常者ではなく、組織に公認され、政府に公認され、世界に公認された殺人者が、自身のモラルとの折り合いをどこでつけるか。そういう話だ。
そして誰に対して、どこに向かって、殺人の責任転嫁をするのか。そういう話だ。
まあ一言で言えば青い。青すぎて吐き気がするほどのプリミティブなテーマでありモチーフだ。
その青さから生じる吐き気を文章の巧みさで上手に殺し、紛らわせ、マイルドにして、読者達の食膳へと饗ずる。この作品からは、ほうれん草のおかか煮みたいなモノを連想させられた。(←その表現で伝わると本当に思っているのか)
読了までに何だかんだで四時間くらいかかった事もあってか、読後感は爽やかだ。達成感九割、えっこんな終わり方すんの感一割、ってところか。
大作感はある。だが作者のデカ盛り主義(文章に情報量を詰め込んで詰め込んで詰め込んでそのまま疾走感を失わずに突っ走ろうとするところ)が文章に読み応えを与える反面、テーマやモチーフや描写対象を可能な限り多数獲得しようと欲張り過ぎて、主題がぶれている感は否めないし、「何とかして大作にしたかった」感も出てしまっている。
まあ作者はこの時既に癌で闘病中だったから人生の残り時間を考えたら焦る気持ちもわからないでもないのだが、それはそれとして、作品は作品であり、小説は小説だ。一箇で完結し完成せねばならない。
小松左京賞の最終選考に残りながら受賞作なしになった理由もそのあたりだと思う。
初夏の陽光の下でのんびり長々と読書を楽しんだが、飽くなき生への執念のほとばしりと、最期まで貫こうとする己のスタイルを強く感じた。
これだけのモノが書ける作家ならばもっと長生きして欲しかった、もっと違う作品を沢山書いて欲しかったようにも思うものの、その一方で、きっと長生きしていたら、この作家にはこのような作品は書けなかったのではないか、と感じる部分も確かにある。
まあ、人生の残り時間の熱い熱いそれでいてクールな使い方のひとつだろう。
よい生き様を見せてもらった。



【ただし主人公一人称の「ぼく」だけは受け入れられない】