虐殺器官 書評

   ***     神主様のありがたいお言葉     ***



神の存在から王権神授説が生まれたのではなく、王権神授説を唱えたいから神という存在が創られたのである。




虐殺器官


最近ラノベの棚でよく目にするこの表紙。
やたら(担当編集の)気合が入っている表紙というのは一目ですぐわかる。
なんか雰囲気的に『All you need is kill』っぽい話かねぇ、と思って裏表紙のあらすじを確認すると、どちらかというとCOD:BOみたいなお話。
「メイスン!レズネフ!ファッキンナンバー!」みたいな叫び声を幻聴しつつ、脳内に銃撃戦を繰り広げながらぼんやり著者略歴を眺めると…なんとまあ、すでに故人。流石に驚いた。
35歳逝去という夭折作家。
32歳デビューの遅咲きの花、僅か3年で散る。
こういう悲劇的な肩書あればこそ、気合い入れて売り込みかけてんだろうなあ…と出版社の意図も推し量れようものだが、しかし、夭折作家とかデビュー後数年で死亡の悲劇の作家とかは、普通に私の大好物である。
いい。しかも事故死とかじゃなく、急病でもなく、長患いの果ての死である。すごく、すごくイイ。
こういう、自身に迫りくる死を自覚しつつ、急ぐように焦るように残り少ない人生では書ききれない文章を紙幅にぶちまけてくる作家の、編集でも除去しきれない醜い生臭さや、生への執着や、悔いのない作品作りに掛ける終わりの見えない執念とか、絶望的な閉塞感とかを、作品の行間に見出すたびにゾクゾクしてたまらない。
ちなみに私は言峰綺礼に共感を覚えるタイプの聖職者です。愉悦。
「逝去」の文字を見た瞬間に即購入決定、速攻でレジへ持って行く。
温泉で入湯料を払い、服を脱ぎ、露天風呂に突入するのももどかしく。
燦々と降り注ぐ六月の陽光の下、温泉に濡れた体をデッキチェアに深々と沈め、吹きすぎる爽やかな風に湯気を立ち昇らせつつ…と、作者のおかれている境地とは正反対の“生”を実感できる最高のシチュエーションに自らの身を置き、しっかりとそこに立脚してから、ワクワクしながら頁を開く。
このあたりの快感をうまく説明するのは難しいが、簡単に例えるならばサハラ砂漠でアイスを食べるとか、南極で寄せ鍋をするとかの感覚に近い。
むせ返るような生の実感の中において、重い病に囚われ死を迎えんとする作家の遺稿を読んでこそ、両者の溝――生死の境目というものがはっきりくっきりと浮き上がり、最も明確に捉える事ができるというものだ。
それらしい理由づけはしたが、普通に趣味悪いと言われても否定しない。愉悦。
さあ、眼前に迫るお前の死がどんなものか俺に読み取らせろ……などと考えつつページを繰ってゆくのだが、…なかなか進まない。
退屈なのではなく、一語一語じっくり読ませていくタイプの文章だ。
読書慣れしていない人間だとすぐに放り出しそうだが、我々の業界(活字中毒)ではご褒美です。
百ページ読み進めるのに一時間半くらいかかったのでビックリした。普段の五割増しかよ。
抽象的だったり難解だったりする文回しを休みなく行う割に、持ち出す例えがやたら卑近で理解しやすい。観念的な話もするすると頭に入ってくる。
こりゃ相当頭良くないと書けないぞ、と思う反面、まるで論文集でも読んでるみたいだな、とも思う。
作者経歴を見る限りは文人タイプというよりは芸術家風に見えたけど、どちらかというと学究肌なのかも知れない。
文章は、文章というよりは映像に近い。描写から想起させる情景が映像作品、とくに映画のそれに近い。著者経歴によると…やっぱり映像関係の仕事してたのかな、これ。
と、ここで類似点の多さに、一人の作家が頭に浮かぶ。
浅井ラボである。『されど罪人は龍と踊る』とか書いてる人だ。
死を前にして焦ってるのか何なのか、文章に対して情報を物凄く詰め込んで山盛りにしてそのまま話を運ぼうとするような“荷重積載車両のフラフラ運転の怖さ”みたいな部分を取り除いたとしたら、とても浅井ラボに似た作品を書く作家なんだろうと思う。
強いて言うならば、浅井ラボに「あなたの余命は後一か月です」と医師が宣告したとしたら、泣きじゃくりながらこんな作品を書くと思う。
浅井ラボは既婚者だからちょっと反応違うかも知れないけど)
まあ浅井の話はどうでもいいのでさておき本書の内容に戻ると、ざっくりと言えばこの話は殺人者の話だ。
ただの野良の異常者ではなく、組織に公認され、政府に公認され、世界に公認された殺人者が、自身のモラルとの折り合いをどこでつけるか。そういう話だ。
そして誰に対して、どこに向かって、殺人の責任転嫁をするのか。そういう話だ。
まあ一言で言えば青い。青すぎて吐き気がするほどのプリミティブなテーマでありモチーフだ。
その青さから生じる吐き気を文章の巧みさで上手に殺し、紛らわせ、マイルドにして、読者達の食膳へと饗ずる。この作品からは、ほうれん草のおかか煮みたいなモノを連想させられた。(←その表現で伝わると本当に思っているのか)
読了までに何だかんだで四時間くらいかかった事もあってか、読後感は爽やかだ。達成感九割、えっこんな終わり方すんの感一割、ってところか。
大作感はある。だが作者のデカ盛り主義(文章に情報量を詰め込んで詰め込んで詰め込んでそのまま疾走感を失わずに突っ走ろうとするところ)が文章に読み応えを与える反面、テーマやモチーフや描写対象を可能な限り多数獲得しようと欲張り過ぎて、主題がぶれている感は否めないし、「何とかして大作にしたかった」感も出てしまっている。
まあ作者はこの時既に癌で闘病中だったから人生の残り時間を考えたら焦る気持ちもわからないでもないのだが、それはそれとして、作品は作品であり、小説は小説だ。一箇で完結し完成せねばならない。
小松左京賞の最終選考に残りながら受賞作なしになった理由もそのあたりだと思う。
初夏の陽光の下でのんびり長々と読書を楽しんだが、飽くなき生への執念のほとばしりと、最期まで貫こうとする己のスタイルを強く感じた。
これだけのモノが書ける作家ならばもっと長生きして欲しかった、もっと違う作品を沢山書いて欲しかったようにも思うものの、その一方で、きっと長生きしていたら、この作家にはこのような作品は書けなかったのではないか、と感じる部分も確かにある。
まあ、人生の残り時間の熱い熱いそれでいてクールな使い方のひとつだろう。
よい生き様を見せてもらった。



【ただし主人公一人称の「ぼく」だけは受け入れられない】

楽聖少女 書評

    ***    聖職者様のありがたいお言葉    ***  



金が貰えるから神を拝む。
つまり信仰とは金であり、宗教とは金であり、神とは金のことである。





さて、正月も終わり(四月…)、ようやく書けるようになった。
とはいえ寝る間も惜しみ休日も返上するほどの激務というわけでもなかったので、小雨の篠つく露天風呂で強い酒かっくらいながらラノベ読むくらいの時間はいくらでもあった。
DTP作業の増える暇なシフトに移行した為、仕事しているフリをしながら空き時間をいくらでも画面に向かって費やせる。いやはやまったく、結構なお話である。



楽聖少女



杉井光の作品を読むと「こいついつも同じもん書いてんな」と思う。タイトルとシリーズは違うのに、同じ主人公。同じヒロイン。同じ脇役達&ガヤ担当。そして何よりも同じなのは、書く対象…モチーフである。
しかしそれでも面白いというののが杉井光作品の凄いところであり、どこかで見たような内容を何度でも繰り返されても飽きずに楽しく読めるのは文体の小気味よいテンポの生み出す技というものであり、そして、これだけの数の著作を「繰り返し」されるともはや、作家が自分の手で書いた作品というよりはむしろ自律機械によって自動生成された文章のようにも見えてくる。
ラノベ作家を生業と決めた杉井が杉井なりに考え出した効率のよいラノベ量産システム。その結論が、これらの作品群なのだろう、と考える。
杉井の生き様はさておいて本書の内容に移ると、舞台は中世、登場人物たちは世界史の教科書に出てくる連中、と一見すると杉井作品が全く新しい世界を切り開いたかのようにも見えるものの、その実、登場人物の中身はと言えば前シリーズ「神様のメモ帳」において非常に既視感のあるものがほとんどである。主人公のゲーテ(ユキ)はナルミ。ヒロインのベートーベン(…。)はアリス。闘魂烈士団(……。)は平坂組。その監督役たるマリアは四代目。まあ、ヒロインがベートーベン(注:女性)というあたりだけでも、以前に天皇をヒロインとしたラノベを普通に出版まで漕ぎ着けてラノベ界にぶっこんできやがった杉井がまたアイツやりやがったぜという感じではあり、それだけでも十分に読む価値があると言えるのだが。それに、中世ヨーロッパ風の舞台背景に本当に闘魂烈士団などという名前の合唱団が存在していいのだろうかという根源的な問いが残されているわけだが。そもそも、その師匠として位置づけられた大音楽家ハイドンをあんな筋肉馬鹿にしてしまって本当にいいのか。いい加減そろそろ、杉井にはどこかから本当に刺客が送られる頃合いなのではないかと(以下略)
まあ簡単に言うと、「古典クラシックの大芸術家達が闊歩していた時代が、日本人に見つかった結果」のような作品だと思ってもらえればいい。だいたいそんな感じの作品である。歴史上の人物を女性化してヒロインとする作品は流行りであってラノベとしてはもはやありふれたものだが、きっちり読者の視線を常に想定して書く杉井らしく、飽きさせない作りである。
舞台は小難しい世界情勢ながら、杉井作品らしくかなり肩の力を抜いて読める作品でもある。
とは言え、特に理由もなく歴史上の人物たちの精神性がおちゃらけた連中へと入れ替わっただけで、ただの薄っぺらい漫才を繰り広げるだけの作品ではなく、時間遡行や存在の置き換えなどといったSF(どちらかと言えばオカルト)要素も含み、与えられた役柄に沿う記憶・人格へと、徐々に少しずつ変貌を遂げてゆく自身や他者に対する苦悩や焦燥、恐怖など、種々様々な描写対象へも筆を伸ばしている。
そして杉井がどの作品でも必ず描写しているモチーフはと言えば、芸術や真理に対する情熱である。年経ても経験を多く積んでも若さを失っても、未だその筆に衰えはない。
ラノベとは、作品も書き手もただいっとき味わってやがて忘れ去られるだけの消費物だが、こういう、定期的に無性に読みたくなる文章を書く作家の息は長いのだろうと思う。
もちろん、そこまでの文体を組み上げた技術や、作品の速成・量産システムを立ち上げて現役に稼働させているその戦略が凄いのだろう、とは思うが。


ハイドンが事あるごとに死合いを申し込んでくる世界観】

六花の勇者 五 書評

四ヶ月書いてなかったのか。フロムソフトウェアこわいとだけ言っておこう。
やべえ書き方とか超忘れた。このへんのテンプレ後で書こう。



六花の勇者 五】




さて以前に紹介したのは1巻だったが、こちらは一気に飛んで5巻。
とはいえ2〜4巻でやってる事は1巻と特に何も変わりがなく、5巻でもまた同じような逡巡を繰り返している。しかしそれでも面白いというのが、本書の不思議な魅力でもある。
さて、本書にはあまり関係ないのだが、「人狼」というゲームがある。
村人達の中に紛れ込んだ数人の狼男が、一晩に一人ずつ村人を食い殺してゆく。
それを防ぐため、村人たちは怪しいと思った相手を選んで投票し、最も票の集まった者を一日に一人ずつ処刑してゆく。
その判断材料は、昼間に村で交わされる討論のみ。
最終的に、狼男がすべて処刑されれば村人陣営の勝ち。
逆に、村人が食い殺されるか処刑されるかして狼男達と同数しか残らなくなると(もはや投票でも不利を覆せなくなるので)狼男陣営の勝ち…というルールの、思考ゲームである。
村人達にも色々と特殊能力があったり、狼男がそれを騙ったり…と、色々と細かいルールや複雑な定石もあって、駆け引きのとても重要なゲームである。
リプレイ(このゲームを実際に遊んだ際の会話内容を記録し読み物としたもの)を読むと又、このゲームの面白さがよく伝わってくる。
で、本書の話に戻るわけだが。
本書は、1〜5巻は、このゲームに非常によく似ている。
このゲームの面白さを抽出した作品だと言ってもよい。
徹頭徹尾仲間同士で疑い合う事に終始している。
仲間同士の殺し合いが一冊に一度は登場する。
というか本来の敵であるはずの魔物との戦闘がオマケ過ぎて片手間過ぎる。何しろ戦闘中も仲間の動向に目を光らせてばかりいる。集中しろ。
むしろ身近にいる“裏切り者”という敵があまりに脅威過ぎる為、ぶっちゃけ魔王とかかなりもうどうでもよくなってきている。魔王を倒す為の六人の勇者のはずなのに。まあ六人のはずが何故か八人いるんですが。
さんざん仲間内の殺し合いをしてきた六花の勇者だが、それでいて一人も欠ける事無く無事にお互いを疑い続けている六花の勇者だが、5巻たる本書では、遂にパーティーが分裂してしまう。
ちなみに今までは“敵中孤立の身の上で戦力の分散はまずいから”みたいな理由で、お互いをとことんまで疑いぬいてはいたもののパーティー分裂まではしなかった。
今回はとうとうパーティー分裂と相成ったが、これは別に敵がいなくなったとかそういう安心できる理由では特になく、特定の二者の見解が乖離し過ぎて(要するにお互いが相手を“裏切り者”と断定した為に)、もうこれ以上お互いが信じられなくなったから二派に分裂したに過ぎない。ああもう。本当に大丈夫なのかこのパーティー
ちなみに、意見が対立したのは卑劣戦士アドレットと田舎猫流暗殺者ハンスである。
アドレットは唯一、物語の初めから登場し、この物語の主観視点の保持者みたいな描かれ方をしていた。
そしてハンスも、一度心臓を停止させられたものの六花の勇者の紋章が消えなかったという一事から、潔白が証明されている。
どうも潔白そうで裏切り者ではないっぽいこの両者が、信頼できる仲間同士として結びつくのではなく、むしろ、意見を異にして袂を分かってしまう。仲間達もまた迷い、疑い、信じる相手を選択させられる。
この構図とこの光景こそ、混乱の坩堝を描く作者の筆致の極まるところではあるのだが。
――どうも、ここへ来て話運びがきな臭くなってきた。
5巻は、主観視点者に最も近い立ち位置で描かれてきたアドレットへの疑いを強く匂わせ、終わる。
読者としては「えー? 今更、5巻にもなって今更アドレットが裏切り者でしたみたいな方向に持ってくのかよー?」と思わされざるを得ない。
まあ作者の事を考えるならば。ここからさらにひっくり返してくる事も十分に考えられるし、それに、仮に“アドレットは本当に自覚なき裏切り者でした”という路線でこのまま進めるのであっても、「じゃあ、裏切り者なんて最初からいなかったんだ」…みたいなエンドにはどうにか辿り着けそうでもあるから、それでも別にいいとは思う。
とは言え、どうあれ。
お話がもうここまで来たのであれば。
主観視点を利用した叙述トリックは卑怯だとか、京極夏彦がどうとか、ウブメの夏がどうとか、もうそういう細かい文句はつけないから。
作者にはただただ、どうか物語の最後まで、楽しませて欲しい。
そう願うばかりである。





【パーティーの隊列というか並び順を見るだけでも色々面白い】

人生 書評

    ***   神主様のありがたいお言葉   ***



清貧であり謙虚であり正直であるべきは無数の凡俗であり、聖職者ではない。





私は活字中毒レベルの濫読家ではあるが、流行り物にはあまり手を出さない。なぜなら流行り物は古本屋においても特設コーナーに展示され、値段が普段の倍くらいに引き上げられているからだ。
ただ。あまり売り場に力を入れてない古本屋だと、初版日のみを見て古本の値段を設定するため、流行り物でも100円や50円で売っている事もザラだ。
こういうやる気のない古本屋にこそお宝が眠っており、だいたい2〜3ヶ月寝かせてから店を訪れると、「値崩れしたら読もうか」程度に考えていた本を、想定していなかった安値で、大量に仕入れる事ができる。
で。そうやって手に入れたうちの一冊が、本書である。







【人生】



映像化の話と相まって先に聞こえてきたのが“著者の経歴“であった為、正直、本シリーズには偏見を抱いていた。
著者は早稲田の教育学部卒。
そして「川岸殴魚」という文士めいたペンネーム。
加えてシリーズ名の『人生』。
で――、表紙はライトノベルまるだしで、話の内容もライトノベル
正直、高学歴の文学部出にありがちな、純文学の文壇に入り損ねてラノベ界に流れてきただけの、ブンガクシャ崩れかな…。と思っていた。
まあ、そういう奴の転落ぶりやら、わずかに残された文学への拘泥やら、未練。
そういったものを、編集された文章の中から敏感に感じ取ってゆくのも読書体験の楽しみの一つというものであり、ニヤニヤが止まらないものでもある。
というわけで。ニヤニヤしながら頁を開いたのであるが、いや正直驚かされた、これがなかなかどうして、しっかりとラノベをやっているのである。
速い。とにかく展開が速い。展開が速くて文章に無駄がない。かつ状況がわかりやすい。
主要登場人物五人の紹介をわずか七頁で終え、その後目に見えた補足がないのは、流石に驚嘆の一語に尽きる。
お話としては、「高校生男子が同級生三人と人生相談を受け持つ」という、ごく普通で、単純で、日常系ラノベにありふれたものに過ぎない。
だが、“あらすじだけ書くと物凄くつまらないライトノベルに見えてしまう点”こそが本書の大きく損している部分であり、これは私のような偏見持ちや食わず嫌いに対して門戸を閉ざす原因となっていると思われる。
「さすがは映像化されるだけの事はある」というのが読後の最初の感想であり、本書は普通のライトノベルとはやはりほんのちょっとだけ違う。
ほんのちょっとだけ違うのだが、それがどう違うのかを説明するのが、とても難しいのである。
進路別にタイプファイされた三人の同級生のキャラクターの差異はとてもわかりやすいものであって、その断絶こそが本書の面白さのキモとも言えるのだが、まあ正直その程度の作品ならば誰にでも書ける。
加えて、三人のキャラクターがあくまでも典型的な類型を出ないものであれば、ここまで巻数を重ねる事もなく、まだ映像化の話も来なかったであろう。
主人公の高校生男子はまともであるのだが、三人の同級生ははっきりと異常である。
……ではあるのだが、同級生達のその異常さを見え隠れさせる事で、普通の日常系ライトノベルとの差別化を計っているのかというと、別にそういう事でもない。
三人はそこまで型破りでもないし、異質でもないし、また病んでいるというわけでもない。
展開もまた、ラノベ的なお約束を外すようなものではなく、あくまでも一般的なものに過ぎない。
しかしながら。
この三者が言葉を交わす段になると、話の異常性が一気に増す。
というよりは、常識が異常性と置き換わってしまう、と言うべきかも知れない。
展開の早さと状況説明のわかりやすさに引き込まれ読み始めたももの、たった20〜30頁読んだあたりでひと息入れざるを得なかったのは珍しい経験であった。
ずれた常識と相互不理解とを、前提知識として交わされ積み重なってゆく会話のスピードに、理解が追いつかない。突っ込みが追いつかない。
しかし不快ではなくて、あくまでも面白い。
だが交わされる遣り取りはどこまでも狂っていて、しかもその狂気は放置され、さらなる狂気を呼ぶ。
そして、異常性を内包する会話文と、淡々とした個性のない地の文。平然と並べられるこの両者の対比がまた、奇妙な読後感を生んでいる。
この、一連の会話文に現れ出てくる狂気のようなものこそ、おそらくは真似しがたい作者の持ち味というものであり、また、確かにラノベでこそ生かされるものであるだろう。
ここまで言葉を連ねながら何だが、この作者の文章の特異性を今ひとつうまく伝えられないのが、どうにももどかしい。
この作者には会話文の名手という認識を持った。
気になって作者の前シリーズの事を調べてみたが、10巻近くまで巻を重ねていた。名前は知らなかったが、やはり一定の評価を得ていた作家という事か。






【隠さない腹黒さ=率直な正直さ】

マグダラで眠れ 書評

     ***   神主様のありがたいお言葉   ***



  職業に貴賎はないが、聖職者は聖職者であり、俗人は俗人である。





連日の猛暑ではあるが、裸足に仕事で履く草履をつっかけて、ぺったらぺったら温泉街をそぞろ歩くのは非常に気持ちのよいものだ。
アスファルトに蓄積した熱で草履の底が溶けてパリパリ言うのを聞かされると、ビーチサンダルで浜辺の道路を歩いているようでもあり、さながら南国リゾート気分を満喫できる。
日没までに終わる仕事の良さというものがここにある。
いやぁ神主になって良かった。
さて、今日はその聖職者叩きに定評のある、こちらの作品である。


【マグダラで眠れ】



支倉凍砂。「狼と香辛料」の人と言った方がわかりやすいだろう。
前シリーズにて全編通して聖職者叩きに余念の無かった支倉凍砂であるが、そのスタイルはまるで「中世の聖職者を叩いておけばとりあえずどこからも文句は出ないし問題ないんだ」と言わんばかりであり、まさに「読者を煽っていくスタイル」である。
次シリーズである本作もまたその例に漏れるものではない。
ただ。ここで一つ断っておきたいのだが、私は聖職者を擁護する気もなければ作者を批判する気もない。むしろその逆である。
前シリーズ「狼と香辛料」においては、主人公の生業である商売(中世における商業)を主眼としていた為、その障害として横たわる宗教勢力、すなわち既得権益の上にどっかりと胡坐をかいて貧民どもの上にマウントポジションで君臨する「教会」の腐敗ぶりについても、かなりの筆が割かれていたように思う。
ただここで注目してもらいたいのは、あくまでも商人が商売敵として認識する上での「宗教の形」というものであって、その認識というのは、単純に生活の為に聖職者をしているだけの私の視点に沿うものでもある。
宗教をビジネスの一形態として捉え、より先鋭化され極安定化を目指した結果としての究極形・一種の到達点として、“商売から出発して商売を超える別のなにかに変化してしまった概念”と宗教を定義する視点は、ラノベ界ならではの自由さと背徳性を十分に生かしきった結果として、世に出る事を許されたものだとも表現できるだろう。
天皇陛下をヒロインにしちまう杉井光といい、宗教を臆面なく商売敵と定義してみせる支倉凍砂といい、こういうとんがった作家は大好きである。
ちなみに両者とも、先頃の“2ch情報流出騒動”においては、他作家や他作品に対する匿名での中傷行為を行っていた事が露見しえらい事になっていたが、彼らの作品のトンガリっぷりを考えれば十分に肯ける行為でもある。
作家が作品のみで勝負しないのはクズだし、匿名で中傷行為を行うのもゲスいとは思うが、両者の作品づくりに対するきわどい姿勢を考えると、他のヌルいほんわか日常系ばかり書いて日々をひさぐようなラノベ作家に対しては文句の一つも言わずには居られないというのが正直なところなのだろう。
とはいえ、結局は面白い売れる作品を書いた作家が正義だ。どんどんやれば宜しい。



さて、のっけから話が逸れた。本題に戻る。
本書「マグダラで眠れ」は、前シリーズ「狼と香辛料」に続く新シリーズとして、再び中世を舞台に、無軌道な錬金術師達の名状しがたい処世術と、それに振り回される一人の修道女を描いたものとなっている。
主人公は錬金術師であるが、中世西欧の魔術師的存在たる錬金術師の固定イメージからは大きく外れた、流浪者にして無法者にして求道者のような存在として描かれている。
現代のように高度科学の光があまねく人民の暮らしを照らす事がなかった中世。最新鋭科学や最新鋭技術に類するものは、わずかに錬金術師の掌中に生み出されるばかりであり、その恩恵に預かる事ができたのは貴族や宗教勢力と言った富裕層のみであった。
かの“マイセン”陶器の発祥も元はと言えば、貴族のパトロンがついた錬金術師が一向に上げられない研究成果の前に深酒を重ねながら、目に見える成果としてパトロンの為に生み出したものとされている。
主人公もそんな、魔術師たり得ない錬金術師の一人として描かれており、現代人の我々の眼からするとただの製鉄業者にしか見えない。
しかし中世の時代においては、より精錬された鉄の鍛造技術を生み出そうとする彼らは単なる業者ではなく研究者であって、さらに言えば錬金術師であり魔術師でもあり得た、と言う事ができる。
封建社会のどこにも属せず、周囲の人間と同じ事をしない。世のはぐれ者として富裕層の庇護下をあちこち浮浪するだけの錬金術師と、その成果監視の為に派遣された修道女。
物語はそんなところから始まる。



あらすじはこれくらいにしておいて本書の書評に移ると、まず第一の感想は「支倉凍砂ってこんなに情景描写上手かったっけ」であった。冒頭から話運びに読者を惹き付けつつも、かつ物語の舞台がすっと頭に入ってくる。
内心描写に重点を置く従前のスタイルは変わっていないものの、さりげない表現が背景描写を補足し、読書のテンポの邪魔にならない。
特に冒頭部分は相当練り込んだのか、ただ文章を追いかけているだけながら、まるでアニメを見ているようでもあった。
内容であるが、基本、登場人物の精神描写や人物間の心理的駆け引きを重点的に描くスタイルは変わっていない。
しかし前シリーズで感じたような「くどさ」は大幅に減じており、読者の心情になるべく沿おうとする意図を感じられる。
老獪、というよりは臈長けたような、現実の前に磨耗しスレてしまった精神の持ち主が主人公に据えられている点は前シリーズと変わらず、ゆえに内面描写や心理的駆け引きが描かれるシーンは非常に多い。
しかし、それなりの社交性や政治力を有した経験値の高い人間を主人公に据えたとしても、ラノベの主読者層からは大きくかけ離れた主人公像となり、読者の感じる共感性がなくなってしまう。
前シリーズを反省しての結果か、今回の主人公はより共感しやすい存在として、現代人たる我々との共通項を特に強調して描かれているように感じる。
歴史小説ではなく時代小説の書き方に近いものを感じる。
主人公はひねくれ者ながら心理描写はひねくれ過ぎずにまっすぐな一本道で、よく整備されておりわかりやすい。
一方ヒロインたる修道女の方はどうかと言うと、これは前シリーズで大体敵キャラとして設定される事の多かった宗教勢力側の人間であり、聖職者の類型像を抜き出したかのような、四角四面の描き方をしている。
まあ聖職者というのはいつの時代でも紋切り型の人物像と対応を求められるという事情ももちろんあるし、その可笑しみも含め、頑固で強情でひたむきな聖職者像として描かれているわけだが、それにしたってこんな聖職者がいるかよと思うくらいのテンプレである。まあ三次元が二次元に文句言っても仕方ない。
そのお堅い聖職者像という牙城を、主人公がイジッてイジッて少しずつ崩していく。前シリーズでは敵として、そして今シリーズではヒロインとして。
要はやってる事は前シリーズと何も変わらないというか、もうこのあたりは支倉凍砂の真骨頂であるのだろう。割と楽そうというか、むしろ楽しそうに書いている。
ティーアドベンチャー風のドロドロとしたストーリー展開は相変わらずだが、救いがないという事はなく、またごちゃごちゃした話の癖に随分スッキリとした簡素な結末で、読み終えた後は爽快感すらある。
支倉凍砂を知らない人にも自信を持って勧められる一冊である。
「この作者性格は悪いけど物語は面白いよ!」と。






【もうそっち系ヒロインしか書かせてもらえないのか支倉】

ガンパレードマーチ アナザー・プリンセス 書評

   ***   神主様のありがたいお言葉   ***





    安定は腐敗を呼び、腐敗はさらなる安定を供給する。





さて。某所にて、聖職者らしく大勢の子供達と遊んであげていたところ、こちらの更新ペースが落ちてしまった。改めて思うが、聖職者というのも大変なお仕事である。
しかし月に消費する本の量はと言えば全く変わらない為、書評はいくらでも書ける。今後は少しペースを上げてゆきたい。
今日は時事ネタに関係ありそうでいで実はそうでもない、こちらの本について語ってみたい。





ガンパレードマーチ アナザー プリンセス】





芝村裕吏である。「ガンパレード・マーチ」の芝村と言った方が分かりやすいだろう。
かつて開発途中のゲームを未完成のまま売り出さざるを得なくなり、広告費ゼロのまま世に放ったにも関わらず口コミでバカ売れさせ、コンシューマゲーム界のダークホースとして所属会社アルファシステムの名を知らしめ、その後しばらくゲーム誌記者達に熊本詣でを義務付けることになった…とも言われる芝村裕吏である。ちなみにこのゲームは発売から20年近く経った今でも中古で5000円台で売られていたりするのが普通である。プレイステーション1のソフトが、そこまで品薄でもないのに、である。凄まじい。
とまあ、ゲーム製作者としての名前の方がよく知られている、芝村裕吏なわけだが。
どちらかと言えば作家として大成して欲しかった人物でもある。
著作はあまり多くない。殆どがゲーム関連のノベライズであり、本書もまたそうである。
だが、芝村の文章は、非常にわかりやすく無駄が無い。
ラノベの中にはぐだぐだと長文をこねくりまわして状況説明に終始するものも多く、話の流れと雰囲気だけで既に説明が完了しているものを、わざわざ地の文で長々と再説明するタイプの作品はページを追うだけでも非常に退屈であり、たまに混ざっている会話文だけ追っていけばストーリーが見えてしまう、というような作品もザラだ。
が。芝村の著作は読んでいる間もまったく気が抜けない。
常に読者の裏をかこうとする習性が見え隠れする文体には、次の展開を悟らせない無表情さがあり、また詳細な説明を読者の読解力に委ねる表現も多く、それでいて読んでいて全く疲れない。
たとえるならばさながら、頑固親父の板前が、無愛想に出してきた、見えないところで客への気遣いに満ち溢れる一品料理…のような文章である。
読者の思考の動きを病的なまでにトレスしつつ書いている証拠であろう。
だいたいこのくらいの文庫本なら一時間くらいで読み終えてしまうのだが、この本の場合二時間かかった。
読んでいて頭を使う。色々考えて補足し、納得する。しかし疲れない。どころか心地よい。
日本文壇に名高い某文豪の遺した数々の著作には、理解するにあたって「行間を読め」などと言われる事がよくあるが。
この手の、読むにあたって読者の目だけではなく頭も程よく使ってくれる作品は、読書行為の一歩奥にある楽しみを提供してくれるので、とても心地よい。



…と、ここまで書いて本書の内容に全く触れてない事に気づいた。
本書はゲームのスピンアウト作品のノベライズではあるが、ゲームも、スピンアウト作品も、一切知らなくとも楽しめるものとなっている。
と、こういうアオリはよく見かけるものだが、本書においては作者がその高い情報伝達性を有する簡素な文体において、複雑な設定もざっくり説明しているので安心である。
ストーリーは至ってシンプル。結末までまっすく一本道の作品である。
タイトルのアナザープリンセスはあまり気にしなくてよい。複数の意味で空気である。
結末は、恐らく大半の読者が、えっそこで終わりなの、と思うこと受け合いであろうと思われるが、本書一冊を使って延々と作者がクローズアップしてきたものは何だったのか、という事を改めて考え直すと、綺麗な形にまとまっていると見る事ができるだろう。
戦争状態に陥った日本を舞台とした話の為、登場人物達は基本的に明日が来るという保障のない日々を生きており、身近な死、死の至近性こそが常識となっている。平和な日常に暮らす我々との差、未来に対する認識や死生観というものにおける大きな断絶にはことあるごとに触れられ、簡素な文体ながら大きくページが割かれている。
が、これが数十年前にはこの国にも当たり前に存在しただろう考え方であり、現在も戦争状態にある他国においては別に珍しくもなさそうな死生観であったり、あるいは未来における我々の常識であるのかもしれない、などと考えてみると、たかがラノベの内容、と笑い飛ばせないものもある。
繰り返される国境侵犯やら国土の実効支配、集団自衛権を巡る論議やら何やらで色々きな臭い世の中であり、武力行使もやむなしの情勢へと傾きつつある現状、神主とは右翼的な言動を強いられる仕事なのだが、私個人としては正直どうでもいい。
戦闘行為を目的とした訓練を日々積んでいる自衛隊を戦闘に送り出すのは別に普通だと思うし、知らないところで知らない人達が殺し合いをしていてもどうせいつもと同じ海外のニュース映像くらいにしか捉えられないと思うが、戦闘の志願者以外を戦争に駆り出すシステムである徴兵制だけはやめて欲しい、とは本書を読んで改めて思った。






【まあどうせ駆り出されんのは若い人だろうけど】

神様のメモ帳 書評

    ***   神主様のありがたいお言葉   ***





 金のためにすら働けない人間は、結局何のためにも働けはしない。





実は近々、腰の落ち着かない後輩が職場を去る事になった。
去る事情というのもやはり、腰が落ち着かないがゆえである。(まあ色々な意味で)
神社界というのは大変に厳しい世界なので、年功序列、上意下達、様々な厳格なルールが存在する。
ルールが守れない人間は消えてゆくしかない。
だが、そのルールを守れないのを逆手に取り、逆に開き直って意見具申を繰り返したりご意見番気取りで改革活動したりする者もいる。
もちろんこういう人間も消えてゆくしかない。
無論、神主の養成課程においては守るべき鉄の掟をまず最初にキッチリ叩き込まれるのだが、馬を水のみ場に連れてゆく事はできても馬に水を飲ませる事はできない。
私は会社員経験もあるので、実は神社界で守らされるルールというのが、会社で守っていたルールと基本そう大して変わらないという事を知っているが、理解する気のない人間にものを教える事はできない。
私の目からすると、かれらの背中には、まだヒラヒラした羽根が生えているように見える。
かれらはそのヒラヒラした羽根で気の向くままにどこへともなく飛んでゆき、決して一箇所に居つく事はないのであろう。
…などと昭和の文学者めいた慨嘆を覚えたところで、自分達にしか見えない羽根を持った人々の登場する、この話を思い出した。
神様のメモ帳

 杉井光である。「いつも綱渡り」的な意味で尖った作品を世に送り出し続ける、杉井光の作品である。
 この作者の作品で読むべきものはというとまず第一に「花咲けるエリアルフォース」が挙げられるわけで、“ヒロインは天皇陛下”という爆弾を平然とぶっ込んでくる杉井のマネなんて誰もできゃしねぇよという意味においては、追随不可能な唯一無二の作家でもある。
 脱線はさておき本作の内容に移ると、まずこのシリーズ(現在8巻まで刊行済)のアオリは、「ニート探偵」という単語を強調するものである。これは、ワトソン役をつとめる主人公に対して、ホームズ役をつとめるアリスが「ニート探偵」を名乗っているが故である。
 そういうキャッチーさを差し引いたとしても、この一巻の話運びはシリーズとしてのテーマを深く追究した、非常に魅力的かつ重厚なものとなっている。
 ストーリーとしては簡単に説明すると、転校続きだった主人公が高校に転入し、しばらくは相変わらず浮いていたものの、そこでおばさんめいたお節介さを全力で発揮する級友に巻き込まれる形で、改めてクラスの一員となり、ラーメン屋でバイトを始め、そこを根城にクダを巻くニート達と知り合い、探偵事務所の奇妙なニート探偵と知り合い、脳筋揃いのごろつき集団と知り合い、“探偵の助手”をはじめとするいくつもの居場所を獲得してゆく……というようなものである。
 一巻目という事もあり、テーマの明確化を踏まえてか、ニートに対する描写に多く筆が割かれている。それぞれタイプの違うニートを何人も流れるように紹介し、かつ筆が淀まず描写が濁らずイメージが伝わりやすいままなのは、杉井光の生み出すくだけた文体の美質と言ってもよい。
 主人公もまた、高校二年生というモラトリアムの中に身をおき、何らやるべき事を見出せない中途半端な「精神的ニート」であり、そこをニート達に高く評価(?)されている。
 無論、ニートの明るく楽しい一面のみを描写するに留まらず、筆はニートの暗黒面、直視しづらい一面にまで及ぶ。ニートとそうでない一般人との微妙な距離感や隔意、そのあたりまで端的に描写したところでついに事件は動き始める。
 羽根。きらきらした羽根。そういった単語を口にする、半廃人と化した薬物常用者達が街の片隅で見つかるようになる。しかし彼らを薬物常用者とせしめた薬物は一向に見つからず、また売人も見つからない。
 エンジェル・フィックスを手に入れたくば、見えない羽根を探せ―――残された言葉の謎に、ニート探偵とその助手は立ち向かってゆく事となる。
 見えない羽根ではどこにも翔べず、むなしく墜ちて地に伏すのみである。
 無力さという現実を埋めるための代替物を求めた、その代償は、結局は無力なままの自分である。
 その結末は、何よりも後味が悪く、そして深い。
 厚さはそれほどでもない普通の文庫本レベルながら、ストーリーはとても一巻構成とは思えないほど読み応えである。
 ニートの人や、将来の決まらない学生、あるいは仕事が長続きしない人達にこそ、じっくりと読んで欲しい作品である。
 そして、「ラノベだから」とバカにせず、じっくりと考えて欲しい作品でもある。



 ちなみに私は、金のために(純粋に生活費を得る為に)神主をしているのだが、聖職者というのはどうもプライドが高い連中が多く、己が金の為に働いているという現実を認めるのを忌避し、また、とかく仕事に金以外の価値を求めたがる。
 だが。冒頭にも書いたが、私は、金の為に働くという単純な事さえできない人間が、人格の異なる他者の労働形態を許容する事すらできない狭量な人間が、純粋に理想や教義の為に働く事なんてできるとは、やはりどうしても思えない。
 もちろん、金にならないからそんな事一言も言わないが。
 想像だけの大きな翼を広げるのは、きちんと大空を渡るだけの実力を伴ってからでない限り、ただただ、滑稽なだけである。






【見えない翼で見えない楽園へ】