八時間目の後に待っているのは下校ではなく部活

『今現在この立場に、つまり罪編までを終え次を待つ身の私達にはオリスクを作ったり推理をしたりと楽しみかたがあるわけですがひぐらしのなく頃にが全て完結してしまった後にひぐらしに触れる人たちはどうするんでしょうね。ひぐらしは今この状況だからこそ楽しめるような気もします。授業と授業の間の10分休みを惜しむかのように楽しんでいるような気分です。そう考えると終わってほしくないような気さえします。』



 これは2日前に頂いたコメントなんですが、ふと見返してみたらマジメに答えるべき質問だったのかも知れないな…と思ったため、今日はちょっとこちらに答えてみます。



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 私がひぐらしに初めて触れたのは1年前で、目明し編をプレイしたのも半年前でした。
 つまり、そう古くからのファンというわけでもなく、またプレイしてからも好きになるまでには時間があったというわけです。
 私もとっくに学生時代を過ぎ、もはやゲームに熱中できる年齢ではなくなっていますし、また、一番感動して泣いた作品は?と聞かれればKey作品を挙げますし、一番作品世界に惚れ込んだ作品は?と聞かれればtype-moon作品を挙げます。
 でも。ミステリーも興味なし、SSも書いた事なく、スクリプトに関しても無知な私が、初めてSSを書き、初めてオリジナルスクリプトを走らせ、そして推理を巡らし考察ブログを頻繁に更新している作品は何かというと…この「ひぐらしのなく頃に」なわけです。
 それこそ一年前は、自分が硫化水素の化学式をこねくり回すことになろうとは思いもしませんでしたし、興奮作用のある体内物質について調べることになるとは思いもしませんでした。
 自分に全く関係のないNPOの研究報告書を読んでいて楽しいと思ったのも初めて味わう感覚でした。



 私は、「ひぐらしのなく頃に」をビジュアルノベルではなく、ゲームだと思っています。



 糸井重里はマザー2に関してこう言いました。
「ゲームの楽しさはゲームの外側にあり、ゲームとはその埋まっている楽しさを掘り出すシャベルのようなものである」
 高機動幻想ガンパレードマーチの説明書にはこう書いてあります。
「このゲームが面白ければ、それは貴方という人間が面白いという事」
 私はこれらの言が真実だろうと思います。
 つまり。ただ謎の多い物語を提示するのみに留まり、それに対しプレイヤーによって展開され得るだろう推理こそが、この「ひぐらしのなく頃に」のゲーム部分にしてゲーム性であるならば、…そのゲーム性というものは、物凄く広大無辺なものになってくるわけです。
 一切の選択肢なしの推理という形によって、プレイヤーに対し広汎な参加余地の提示を行うことのできるゲーム。
 …推理小説に代表されるミステリの世界においてはごくありふれた構図でしょうし、また「ひぐらし」をプレイした人々にはミステリや推理の好きな方も多く含まれるだろうと考えます。
 だったら何故、この「ひぐらしのなく頃に」は、まるで遅筆の推理作家のような発表形式を取りながらも、年単位に渡る支持を受け、漫画化やらコンシューマ化やらアニメ化やらの話が次々と舞い込んでくるのでしょうか。
 それはシナリオに、作品世界に、キャラクター達に…「作品」そのものに謎や推理を通じて覚える事のできる、たいへんな魅力があるからでしょう。


 web上に、正解が解ってしまったら魅力が損なわれる推理小説に似た形式での“難問”を提示し、続編を作り続け、売り続ける。
 このインターネットの普及による情報遍在化時代に、普通だったらこんな真似怖くてできないはずです。
 正解率が1%でもあれば、次の瞬間その解答用紙が出回ってあっという間に100%に達してしまうのが現代という世の中です。
 頑張って次編を作っている最中に、その作品全体の魅力が消失する瞬間が来てしまうかもしれないと思ったら普通、怖くて文章が書けなくなると思います。
 (私も「祟殺し編11.5日目」という物凄くちゃちな作品を時間に追われつつ作っている最中、この感覚を微小ながら初めて味わいました)
 しかしそれを敢えて行い、かつ人気も博しつつ、そして解答編にさしかかりながらも…すべての謎の解答は未だ“出回らないまま”。
 これはイコール、「解」が編を重ねている今さえ、プレイヤーの位置に立つ誰もが皆を唸らせる唯一の正解に辿り着けていない証左となり得るでしょう。
 この手綱取りというか、絶妙のバランスは普通…維持する事さえ難しいはずです。なまなかな構成では破綻するのが当たり前の結末です。
 それを六篇目…三年目まで維持しているのは、立つ事も難しいタイトロープ…あるいは分水嶺の上に立ち続けているのは――ひとえに、この作品の卓越した(編を重ねていく上での)「構成力」による部分が大きいでしょう。


 もちろん、コメント頂いたように、この作品に対し存在するであろうさまざまな欲求は、「解」四編をすべて終えれば雲散霧消するものが多いことは否めません。
 謎に興味があった人は謎が解ければ興味をなくすし、
 (一人称あるいは三人称の)さまざまなキャラクター達が運命に立ち向かってゆく姿に共感を覚えていた人も、もう運命に立ち向かう物語は残っていないと知れば背を向けるでしょう。



 …しかし、私は「ひぐらしのなく頃に」をビジュアルノベルではなく、ゲームだと思っています。



 謎を解いてしまったらああ面白かった、けどしばらく再読はしないな、という推理小説と違い、ゲームは繰り返し遊べるからこそゲームたり得るだろうと思います。
 すべての謎が解かれ、すべての仕組みが明らかになった後で。
 そのプレイヤー達が既知である複雑なギミックを踏まえ、ありえたかもしれない可能性を追求し、推理要素という制約に縛られない…推理を拒絶するかのような物語、「ひぐらし」の出題編とも解答編とも異なる極端な編の構築がなされれば――
 それは謎が解けた後ですら、魅力的な作品になり得るだろうと思います。


 要するに、私が何を言いたいのかというと。
 ひぐらしは前半の浮かれ騒ぎと後半の惨劇を足して初めて「ひぐらし」であり、前半の出題編と後半の解答編を足して初めて「ひぐらし」なんだと思います。
 つまり祭囃し編が誰も死なない皆幸せになるようなグッドエンドだとしても、――それと対をなすエンドがあったって別におかしかないわけです。
 初期配置最悪。展開最悪。シナリオの偶然、悪意が最悪に作用して、解を終え「ひぐらし」の仕組みを理解したプレイヤー達だからこそ理解できる、最悪の結末が避けようもなく訪れる。
 そういうシナリオがあったっていいというか、逆に言えば、解を終えた後でなければ、そういう推理要素のない純然たる悲劇は凄く面白そうでも書けないと思うんです。
 そして、別に悲劇やらバッドエンドに関わらず。
 閉鎖的な舞台と、多面性を有するキャラクター達。さまざまな人の思惑と、きな臭い過去。
 複雑な要素が絡み合って織り成される悲劇喜劇は、謎というエッセンスなしにも面白い……という可能性はそのまま、つい先日公開された罪滅し編の面白さにも若干通じるものです。
 原作者さんにはぜひ、「解」によってこの謎を解くだけではなく、さまざまな制約なしに、数多の要素を秘めるこの作品世界の可能性を存分に描ききって欲しいものです。


 「謎」はこの作品の恐怖の一助でもありますし、作品自体推理物というカテゴリにくくられもするでしょうが、「部活」と「惨劇」こそがこの作品の魅力の本質だと私は考えます。
 差の激しい表と裏をしっかりと繋ぎ止めているのが「謎」という奇怪極まりないブラックボックスであるからこそ、その謎に対して推理をしたくなるのです。
 すなわち――謎を推理する楽しみは、謎はなくなったけど結局複雑なこの作品世界のさまざまな可能性を追求する楽しみにそのまま繋がっていくものと私は考えます。
 部活であれば草むしりでもきっと本当に楽しいと思います。



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 以上。ちゃんと答えてみました。
 適当に答えてごめんよ。