(雑記)異邦における圭一の視点の特異性・プライベートとそれ以前
不動産屋が迷惑…。
敷金だけじゃ部屋の修理が無理だからあと一万ちょっと振り込めって言うだけの事に十分以上の時間をかけるなと。
会う奴会う奴ことごとくそうじゃないか…。「恩着せがましい事や嫌味を吐きそうなほど言わないと死んでしまう病」の感染者ばっかり住んでんのかあのスラムには…。
さすが公衆便(以下略)
以下は考察とは全く関係ない記事。
「ひぐらしのなく頃に」の圭一(プレイヤー)視点でも少し触れられている事であり、またこないだ見た映画「SIREN」とかでも(そういう表現を非常に得意とする)堤幸彦監督によってステロに描写されてた事なんですが。
都市生活者にしてみりゃ田舎はそりゃー確かに、異邦というか一種異界にさえ思える部分があるかも知れません。
が、私のような何もない田舎から出てきた者から見ると人口過密都市ってのは色々な意味でゴミ捨て場みたいに見える時がある。
いや、“フハハハハ人がゴミのようだー”ってんじゃなくて、なんつーか…距離を置き、薄め、人に見せないよう心がける部分を全然気にもしてない、みたいな。
険悪な関係、他人にはつっかかって当然、過剰な警戒は必要悪として正当化、みたいな部分を平然と受け入れているのが凄いなあと思うわけで。
職場でも家の周りでも全っ然理解できない空気が流れていたので、正直彼らと同じ酸素を吸って生きているという実感さえ湧かなかった。
“都市生活者は他者に無関心、近隣者の暮らしぶりも知らないくらいプライベート重視”
“田舎は狭いコミュニティ内部を個人情報が光の速さで駆け巡るのでプライベート無し”
と一般には言われるわけですが……私から見るとまるで逆に思える。
いや、確かに田舎だと、誰それが何処そこの店にいて何かを買っていたのでその日は仕事休みだったとか何をする趣味があるとか、そういう余計なお世話的情報はホントにだだ漏れなのでプライベートは確かに皆無だ。圭一みたいな驚きにぶつかるのも別に珍しい話でもない。
だが、つい最近まで私の暮らしていた都市ではプライベート以前のものが著しく欠けていたように思う。
皆、いろいろヤバいくらいに剥き出しのままお互い接して、どんどん関係を悪化させてゆく。
こういうバッドエンドスパイラルな傾向を、都市の在り様が生活形態が生み出す普遍的なものとして受容し甘んずる姿勢を傍から見ていると…物凄く怖くなってくる。
少なくとも、田舎の連中というのは対人態度に関して言えば非常に礼儀正しいと言える。
いや、プライベートとか確かにねえし、本家の爺が人ん家の庭勝手に横断して畑行くし、私が言いたいのは何も田舎の大自然礼賛とか田舎者の朴訥な人柄礼賛とかではない。
そうではなくて、彼らの態度には多くの場合、ある種の余裕を有り余る程に垣間見ることができる、という事だ。
で、両者を比較すると……やはり片一方はどうしても、狭いケイジでストレス溜めて隣同士突っつきあう養鶏場の鶏みたいに見えてきてしまう。
余裕ない…というか、デフォルトでいつも追い詰められてて、それで平気なのかよ、そんなのに慣れちゃっていいのかよ…と思ってしまう。
まあ、単に私が遭遇したのはとても極端な例なのかも知れない。
一切の近所付き合いなく暮らしていたから、強引に接触してくるのは迷惑じみた態度の奴だけだった……という部分も確かにあるのかも知れない。(職場とかは別だけど)
都会の人は心が荒んでいる、とか化石の臭いのするような事を言うつもりはないが、だがもう少し自分自身を大切にするための礼儀として、せめて見せ掛けだけでも対人態度にくらい若干の余裕を持たせた方が、何事もうまく運ぶんじゃないのかな…とは思う。
うーん…こう思うのは、私がガキなだけなのかな。